テイカカズラ
   

韓国が唯一、日本へ優越感を示してきたコロナ対策自慢は今日で終わりになる。日本政府が25日に、首都圏と北海道のコロナ緊急事態宣言解除が有力になったからだ。本欄は一貫して、日本の防疫対策の有効性を信じてきた。メディアは懐疑論に陥って、「韓国を見習え」とまで報じるほどだった。日本は防疫対策の原則に則って、きちんと対応して来たのだ。それを信用できず、フラフラした論調が現れたのは残念と言うほかない。物事は、すべて原理原則から捉えるべきである。その原則論を理解していないから、論調が狂うのであろう。

 

『朝鮮日報』(5月23日付)は、「『他の模範』から『反面教師』に」と題する記事を掲載した。

 

(1)「数日前、日本で兵庫県の子どもたちが新型コロナウイルスと戦う地域の医療従事者たちに手作りの防護服を寄付したことがメディアで大きく報じられた。医療用防護服が不足しているため、ある学校法人が幼稚園児まで動員してビニール袋、ハサミ、テープで簡易防護服1400着を作って寄贈したという内容だった。「美談」のように仕立てられてマスコミで流れた」

 

この記事が存在したことは、初めて知った。良い話だと思う。園児までが防護服をつくったことは、それが実際に使用に耐えられるかどうかは別として、感染防止意識を高める教育効果は抜群である。この園児たちは一生、感染症への注意を怠らないであろう。

 

(2)「日本人たちの反応は冷ややかだった。「人の命が懸かったことは、おままごとではない」「防疫にとって害になるので記事にするな」などの意見が相次いだ。その中で「戦時中の竹やりのようでおぞましい」という表現が目についた。第二次世界大戦当時、日本軍が兵士たちに竹やりに爆弾を付けて戦車相手に戦ったことや、「爆撃機を撃墜する」として女性や子どもまで竹やり術を訓練したことに由来する。無謀なことの代名詞とされる」

 

読者の反応は、長期の家庭滞留を余儀なくされているストレスのはけ口であろう。下線部の竹槍訓練は、母親が参加していたので記憶している。だが、園児のつくった防護服は使用に耐えられないものならば、贈呈するはずがない。幼稚園の関係者が「実用可能」と判断したのであろう。となれば、「竹槍論」を持ち出す読者の方が先走っている。朝鮮日報記者もそれを確かめず、韓国優越感に悪乗りした記事だ。

 


(3)「さまざまな災難が起きるたびに「〇〇して応援しよう」とキャンペーンを繰り広げ、それに呼応する日本社会が、これほどまでに無気力で懐疑的な感じに陥るのは異例のことだ。これまでにないほど自国の政府の失策・無能ぶりがストレートに出てしまったからだろう。その比較対象が韓国だという点が、日本人たちをいっそう敏感にし、虚脱感に陥らせている。韓国はコロナの初期には防疫が困難を極めたが、保健当局や医療従事者たちの献身、多数の市民の成熟した意識のおかげで、大きなヤマを越えたと評価されている。感染経路の把握と感染者の管理過程で活用したビッグデータなどの情報技術は、日本ではみられないものだ。竹やりと比べれば超音速戦闘機ぐらいに見えるだろう」

 

このパラグラフは、日本の防疫体制を全く取材もしないで、「韓国優越感」に浸って書いている。日本が、それほど科学的に無能力であるはずがない、という事実を無視しているのだ。韓国の防疫体制は異質である。感染症対策は、全数調査でなく、クラスター把握が優先される。これが、防疫学の原点である。韓国が大邸(テグ)で引き起した大量感染者発生時の全数調査は、韓国防疫学会が反対したものだった。だが、大統領府の政治的意図で強引に行なわせたのだ。

 

日本の欠点は、マスコミが現象だけ報じて、その問題の構造論にまで踏込んで報じることはない点である。韓国メディアは、問題点を報じていたが、その後忘れてしまい「韓国優越論」に肩入れして行った。こちらもすこぶる問題である。

 

(4)「日本では、韓日の差が「経験の有無」から来ているとの見方が大勢を占める。日本社会が前例とそれに伴う指針に左右されるというのはよく知られている。韓国は2015年、MERS(中東呼吸器症候群)の発生当時、感染者・死者数が世界2位(感染者186人、死者38人)となった。一方の日本は感染者が0人だった。すると「なぜ必死で韓国に学ばないのか」(ニューズウィーク日本版)という声が上がった。マニュアルがなければ韓国を手本とせよ、と主張したわけだ。ニューズウィークはいまだに保健所が紙と鉛筆と電話で感染者の経路を追っている日本の現実を、「戦車に竹やり」で向かう以上の戦いで、「ロケットに弓」で対抗しているようなものだと嘆いた」

 

『ニューズウィーク日本版』の記事では、過去にも勇み足があり、本欄は批判対象にしたことがある。日本はノーベル科学賞受賞者を輩出している国である。その日本が、韓国に引けをとるような「手抜き」があると思うところに間違いがある。日本の底力を信じないのは、日本の本当の姿を知ろうとしない結果である。日本をただ、信じろというのは、国粋主義(民族主義)の通弊だが、もっと深く日本を学ぶべきである。日本を深く理解しないで、知ったかぶりした付和雷同の論調が一番迷惑するのだ。

 

(5)「しかし、日本が韓国を羨ましがる時間はそんなに長くなかった。ソウル市内の繁華街、梨泰院で集団感染が発生し、1日の感染者数が2桁に増えている。地方自治体と一部の若者の気の緩みが招いた失策だ。この問題もリアルタイムで日本に伝わっている。日本では各メディアの記事の論調から読者の反応までもが一瞬にして変わった。「韓国のミスを参考にし、我々は絶対に警戒を緩めないようにしよう」といった具合だ。日本で韓国のイメージが「他の模範」から「反面教師」へと急激に反転してしまった。何かと注目を集める「K防疫」だが、このような見本になるのはうれしくない」

 

韓国が、自慢しすぎた結果が招いた事態である。文大統領は、総選挙対策で「K防疫は世界の標準」と自慢した。この伝でいえば、緩い規制でコロナ非常事態を解除できる日本は、「J防疫は世界の標準」と宣伝してもいい。だが、控え目な日本は決して言わないだろう。