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韓国進歩派は、敵・味方論で社会を分類している。初代大統領李承晩(イ・スンマン)は、日本では悪名高き大統領だ。勝手に公海上に「李承晩ライン」を引いて、一方的に韓国領海にしてしまった人物である。その際、日本領「竹島」を「独島」として韓国領土に編入したのだ。

 

韓国にとっては「恩人のはず」の李承晩が、文政権では「敵」に分類されている。親日派を重用して、進歩派を弾圧したという理由である。この仇討ちにと、李承晩没後55年追悼式で、政府代表は「大統領」と呼んだのは最初だけ。後は、「博士」と呼んで差別するほど。李承晩は、米国へ亡命していた。米国が後ろ盾で「初代大統領」に押し上げたという事情はあるが、ルーツは「抗日」という意味で進歩派のはず。それが、文政権の色眼鏡によれば、「敵」に分類されるのだ。

 

『朝鮮日報』(7月26日付)は、「東京で出会った李承晩」と題するコラムを掲載した。筆者は、同紙の李河遠(イ・ハウォン)東京特派員である。

 

逝去55周年を迎えた李承晩元大統領に対する執権勢力の侮辱が相次いでいることから、ここをもう一度訪れようと考えた。「独島(注:竹島)は日本の領土」と主張する日本政府の「領土・主権展示館」だ。日本側の意図とは裏腹に、李承晩が日本に対抗して独島を守るために努力した業績が見て取れる場所だ。

 

(1)「『独島館』には依然として横10メートル、縦3メートルの大型パネルがあり「韓国の独島不法占拠」の過程が詳しく説明されている。1951年のサンフランシスコ平和条約前後の李承晩政権と国際社会の動きを日誌の形で展示している。独島は1945年の日本の敗亡と共に自動的に韓国の領土と認められたわけではなかった。米国の立場が二転三転し、独島が竹島(独島の日本名)となりかねない危険千万な状況もあった。このとき李承晩の強い決断と国際感覚が光を放った。日本の領土・主権展示館は韓国の「不法行為」を強調し「1952年の李承晩ライン(平和線)」についてこのように記述している」

 

(2)「李承晩韓国大統領は海洋主権宣言を発出し、いわゆる李承晩ラインを公海上の広範な海域に一方的に設置するとともに、このラインの中に竹島を取り込んだ」「その後、同ラインを侵犯した日本の漁船を拿捕(だほ)する事案が済州島南方の漁場を中心に多数発生するようになり、船員が抑留されるなど問題が深刻化した」

 

竹島は日本領でありながら、朝鮮戦争中のどさくさ紛れに韓国領に奪取された経緯は、ここに指摘されている通りである。「李承晩ライン」という国際法では認められない韓国領海をつくり、限りない日本漁船が拿捕された。船もろとも韓国に拘留されて苦難に遭ったのだ。日本にとっての李承晩は、文字通りの「敵」である。その分、韓国には「味方」なのだ。その李承晩が、文政権では「敵」に分類されている。文政権の基準が狂っているのだ。

 

(3)「李承晩は35年間(日韓併合時代)、地図から消えていた国の再建のために執権初期に日帝時代の専門官僚らを起用した。このため「親日派」という汚名を着せられたが、実際には日本側にとって手ごわい人物だった。「そのような李承晩が、大韓民国の建国を否定的な目で見る文在寅(ムン・ジェイン)政権の法務長官から制憲節(憲法記念日、7月17日)にあざ笑われた。19日の追悼式では報勲処長から建国大統領とまともに呼んでもらえなかった。与党議員らは一人も追悼式に出席しなかった。今日の大韓民国が存在することとなった功労者につばを吐く行為に他ならない」

 

日本にとって李承晩は、許しがたい「敵」になる。文政権にとっては「味方」のはずが、「敵」扱いである。これは文政権の異常さがもたらした現象である。李承晩を初代大統領と認めがたい気持ちを表わしているからだ。

 

心情はともかくとして、歴史には、「初代大統領」として刻まれているのだ。仮に将来、「文在寅大統領」は、自己の支持派優先の行政を行い国民統合の大統領として失格である、こういう政権が現れたらどうなるか。「自称社会派弁護士」という屈辱的な肩書きで呼ばれる自分の姿に思いを馳せるべきなのだ。

 

(4)「最近、大韓民国の国民の民心が急激に現政権から離れているのは、単に「狂ったような住宅価格」や「性認知感受性(性差別社会の中で、声を上げにくい被害者の心理を考慮すること)不足」だけが原因ではないはずだ」。

 

今後、韓国経済の衰退が顕著になる。その屈折点が、文政権であったという評価は必ず出るはずだ。将来の文在寅大統領「追悼式」は、どういう評価を受けるか。今から、おおよその見当がつくのだ。