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日本のメディアで、菅首相の思想・信条について真っ正面から取り上げた記事はない。地方議員からの叩き上げで、時代の変化に鋭敏という見方だ。「徹底したリアリストでもある。イデオロギーや理念にしばられない『無思想の思想』の持ち主だ」と、日本経済新聞(9月21日付「菅義偉首相の思想と行動」)は論評している。

 

菅首相が、「無思想の思想」の持ち主とすれば、日本を牽引する首相として「大丈夫だろうか」と心配になろう。だが、饒舌でない菅首相は、「自助・共助・公助」という言葉を手短に述べている。詳しい説明はなかったので、多くの人は聞き逃している。私もその一人だが、「無思想の思想」という記事に出会って、ふと「自助・共助・公助」という菅発言を思い出した。それほど、地味な話し方であったのだ。

 

「自助・共助・公助」は、言葉の羅列でなく、先ず「自助」で個人が努力する。地域の人たちがそれを支え「助け合う」。それでも解決しなければ「公助」が、セイフティ・ネットワークとして機能するという意味であるようだ。これは、立派な思想である。ドイツ社会学者マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に基づくものと言っていい。先ずは、「自助」である。それが、社会を活性化させる原点だ。

 


実は、米紙『ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)』(9月16日付)は、「
日本の新首相、期待される経済改革」と題する社説を掲載している。

 

(1)「安倍氏の内閣官房長官として長く仕えた菅氏は、安倍政権において主導的役割を果たした。同氏は現在、非効率な地方銀行の改革に重きを置くなどといったアイデアを持っている。日本の地銀は数が多過ぎる上、利益が少な過ぎる。安倍氏の爆発的な金融緩和措置は(地銀の)助けにならなかった。菅氏は長年、統合によって地銀が中小企業に融資する能力が上がると信じてきた。同氏はまた、中小企業間の統合や合併に対する政策上の障害を取り除きたいと考えており、それが生産性向上を後押しする可能性があるとみているようだ」

 

管氏が、ゼロ金利で沈んだ地方金融機関の再編に動き出している。これにより、金融機関の体質を強化して、地方経済を活性化させ「アベノミクス」の成果を地方に届けることを明確にしている。

 

(2)「これらは小さな措置のように聞こえるかもしれないが、こうした小さなアイデアが大きな影響をもたらす可能性はある。日本には事実上、2つの経済がある。1つは大手輸出企業から構成される世界的競争力を持った生産性の高い製造業を中心とした経済。もう1つは、痛ましいほどに生産性が低く、中小企業から構成され、投資が不足している国内サービス業を中心とした経済だ。菅氏が2番目の国内経済に向かって改革の矢を放ちたいと思っているのなら、彼の狙いは正しい」

 

地方経済は、中小企業が主体である。この中小企業を金融面でバックアップすれば、日本経済全体の底上げに繋がる。菅首相は、こういう論理で地方金融機関の再編に取り組む姿勢を見せているのだろう。ここに見られる構図は、「自助・共助・公助」のマクロ経済版である。さすが、WSJは目の付け所が鋭い。

 


菅氏は、官僚からは「厳しい人」という評価がもっぱらだ。その代表的な話しを紹介したい。

 

『毎日新聞』(9月21日付)は、「菅首相は『地方に優しくない』潜む新自由主義と翼賛の危機、『左遷』された元官僚が伝えたいこと」と題する記事を掲載した。

 

菅義偉氏に抵抗して左遷されたとされる元官僚がいる。平嶋彰英さん(62)。現在は立教大特任教授(地方税財政)を務める平嶋さんは総務官僚当時、菅氏肝いりの政策である「ふるさと納税」の問題点を訴えたが聞き入れられず、左遷されたという。

 

(3)「菅さんは地方に優しくなんかないと思います。15年ほど前、菅さんに(自治体間の財源の不均衡を調整する)地方交付税制度について説明しに行ったときのことが印象に残っています。「私は努力したところがもっと報われるような仕組みでないといけないと思う。そういう意味で今の交付税制度はおかしい」と制度への不信感をあらわにしていました。地元の秋田県にある全校50人ほどの学校を例に挙げて、「立派な体育館もある。こういうことをしてもやっていける仕組みはおかしいのではないか」とも主張されていました。「努力した者が報われるべきだ」という新自由主義的な考えが強いと感じました」

 

管氏に左遷された平嶋彰英氏は、「新自由主義」をかなり嫌っておられる印象だ。新自由主義は、ノーベル経済学賞受賞のミルトン・フリードマンの主唱した思想である。単なる「自由主義」を超えているのだ。管氏は、「自助・共助・公助」を信条として上げている。これは、「新自由主義」そのものである。

 

先ず、初期の個人主義的・自由放任主義的・古典的自由主義ではないことを銘記していただきたい。より社会的公正を重視し、自由な個人や市場の実現のために、政府による介入も必要と考え、社会保障の充実を提唱する考えである。こういう視点で考えると、全校で50人しか在籍しない学校で、大きな体育館が必要かどうか。財政効率面からは再考を要するであろう。管氏が疑問を持って当然だ。これを、「新自由主義」と一刀両断する方が間違っている。財政規律に無頓着な官僚として、むしろ批判されるべきであろう。