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中国は、環境破壊の張本人である。それが、急に環境保護に熱心な国という評価が立ち始めたから不思議だ。大気汚染・水質汚染・土壌汚染とやりたい放題であった。限界にぶつかって目を覚ましたら、「環境保護派」という義士になっている。本当に不思議な話しだ。

 

過去を知らないで、現状だけを見つめていると、こういう誤解をするのだろう。独裁政権が、環境保護派になるのはその裏で何かを狙っていると考えるべきだ。国民の監視という目的の遂行である。

 

英誌『エコノミスト』(9月12日付)は、「『環境保護を強める中国』の実態」と題する記事を掲載した。

 

このほど出版された『環境保護を強める中国』の著者らは、中国の非政府組織(NGO)と政府当局との関係の近さが、しばしば国外の活動団体にそうしたNGOには近づきたくないと思わせる原因になっていると指摘する。中国は「生態系に配慮した文明(エコ文明)」を構築し、そのモデルを世界と共有するという大胆な目標を掲げており、それを分析したのが本著だ。共著者の一人である米アメリカン大学のジュディス・シャピロ教授は、こんなエピソードを紹介している。

 

(1)「中国で成功している環境保護政策には共通点があると同書は指摘する。一度決めた目標に固執したり、「すべての物を同じ刀で切る」(あらゆる問題に同じ解決策で当たるという意味の中国の成句)ような画一的な解決方法を上から押しつけたりはしない。成功するケースでは国がボランティア団体と協力して、市民社会から意見を募る点も共通する。同書は1990年代後半に中国北西部の黄河の上流と中流域に広がる黄土高原で実施された植生復元計画を例に挙げる。同プロジェクトの設計者は2年かけて現地の農民や科学者らと相談し、計画を現地の状況に合わせて調整していった。砂漠柳を植え、伝統的な造園技術でクルミやナツメヤシの果樹園を造り、不毛な土地に徐々に生命を取り戻していった」

 

黄土高原は、中国社会が環境に無頓着な結果、現在のような荒土になった歴史がある。過去は、うっそうとした森林であったのだ。ここを、昔の状況に戻すには「伝統的な造園技術でクルミやナツメヤシの果樹園を造る」という手法を取るしかないのだ。

 

(2)「その後、成果を急いだ当局は成長が早く、大量の水を吸い上げる数種類だけの樹木を多数植えて計画の規模拡大を図った際は失敗に終わった。同書は中央計画経済の限界を示すだけでなく、中国指導部が環境政策を自分たちがこれまで通り独裁を長期的に維持していくという野望の隠れみのに利用しているとも批判している

 

当局は、植生バランスを無視した促成方式に転換した失敗した。土壌には、それにあった植物しか生きられないのだ。こういう簡単な事実を忘れている。

 

(3)「国外では、世界的なインフラ整備計画「一帯一路」の環境保護実績をアピールする。途上国に低コストで環境保護技術を提供していると胸を張るが、指導部が本当に環境を重視するかは自分たちの都合による。国益のために遠く離れた海に漁船団を派遣して水産資源を略奪させ、外国政府と不透明な契約を結んで、その国に石炭火力発電所や環境汚染につながる鉱山開発、生態系を破壊するダム建設などを進めてきた。そして地元で抗議運動が起きると、その国の独裁的な政府にその鎮圧を任せることが多い」

 

中国は、表の顔と裏の顔を使い分けている。表の顔だけを見て、環境保護派というのはおこがましいのだ。

 

(4)「同書は、中国の容赦ない上意下達式の統治こそが国内外の環境に直接害を及ぼしているのではないかとも問いかけている。これは重要な問題だ。自由民主主義諸国が環境問題にうまく対応できていないようにみえる今、中国のテクノクラートによる断固とした一党独裁モデルこそが地球に残された最後の期待できる望みではないかと考える外国人が増えているためだ」

 

環境保護精神と独裁主義では、全く相容れない存在である。「自然に優しい」ことは、「人間に優しい」のである。この物差しで、中国政府を眺めれば、その噓が分るであろう。

 

(5)「『中国が地球環境問題の救世主となるのか』といった書籍や『環境独裁主義の到来』といった論文が登場し、気候変動への取り組みに対する中国の誓いや、風力発電や電気自動車への巨額投資を称賛している。しかし、こうした国外の称賛者の中には後に、独裁政権による強制は、環境に悪影響を与える行動を抑制する唯一の方法なのかと(後悔の念を持って、その度合いは様々だが)自問するケースが少なくない」

 

環境独裁主義など、存在できるはずがない。「自然に優しい」ことは、「人間に優しい」という単純な事実によって論破できるだろう。ともかく、中国が環境保護派とは聞くに堪えない言葉である。その前に、国民に自由な考えを認めるべきである。