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韓国は、形式社会である。大臣候補が、博士論文の盗作疑惑で辞退せざるを得ないなど、「博士」をめぐる話題に事欠かない。博士になれば、経済的な利益が期待できるからこそ、他人の論文を盗作してまで「ニセ博士」を目指すに違いない。これは、儒教社会に共通である。

 

中国でも習近平氏は、博士号を持っている。習氏の最終学歴は、清華大学大学院の博士課程修了だが、「博士論文は福建省長時台の秘書の代筆だった」とする疑惑が2013年に浮上したことがある。香港紙『リンゴ日報』が報じたもの。この『リンゴ日報』は、先ごろ言論弾圧で取り潰されてしまった。習氏の恨みを買ったのだろう。

 


習氏は、福建省長と浙江省長代理を務めていた1998年から2002年の4年間、母校の清華大学の大学院課程である人文社会学院で、在職研究員として博士課程を履修し、法学博士号を修得している。中国では通常、博士論文は大学のホームページなどで公開されているが、習氏の論文はなぜか公表されていないという。これで、習氏の「ニセ博士」の疑いも濃厚である。

 

『朝鮮日報』(8月1日付)は、「博士を大量に輩出しても遠い知識大国」と題する寄稿を掲載した。筆者は、ソウル大学環境大学院チョン・サンイン教授(社会学)である。

 

国際的にも韓国はすでに「博士の国」として定評がある。1993年に映画化されたマイケル・クライトン作の米国小説『ライジング・サン』には、世界で人口比の博士号所持者が最も多い都市がどこなのかを問い、それに答えるシーンがある。誰かが「ボストン」と答えると、相手は「韓国、ソウル」と修正する。

 


(1)「博士が増えたことで、韓国の国力がその分、拡大したことは否めない。しかし、今のような傾向で博士が今後も多多益善であるかどうかは未知数だ。もちろん、人口減少や低成長時代を迎え、何よりも大きな問題は彼らの就職難だ。しかし、究極的な鍵はこうした形の博士人材の輩出が、韓国社会の知的力量強化と国の発展にどれだけ貢献するのかという点だ。博士の本来の意味は、特定領域で独立的に研究する能力を公認する一種の資格証だ。昔からそれは高等教育や専門研究の分野で通用するものだった」

 

韓国の大学(短大を含む)進学率は、98%にもなっている。世界有数の高さである。学問への情熱の高さを示しているようだが、実際はそうでない。名誉栄達を望む手段になっている。人生の装飾品に過ぎないのだ。これでは、学問は暗記対象であり、新たな知識を生み出す手段にはならないだろう。韓国からノーベル科学賞受賞者が出ない理由に思われる。

 


(2)「韓国人が博士の入り口に集まる理由は多少異なる。韓国の場合、学問の名で権力や富、名誉といった学問以外の利益を追求する傾向が強い。何よりこれは朝鮮王朝時代の学問観が今日まで綿々と続いているからである。朝鮮王朝時代の学問とは基本的に科挙及第による立身出世の手段だった。案の定、韓国の政治家や公職者の中には博士号の所持者が特に多い。2019年現在、公共機関長の60.6%、中央行政機関長の42.3%が博士号を所持しているという。国会人事聴聞会で定番となったシーンの一つが博士論文の盗作疑惑であることがこれを物語っている」

 

下線部分は、行政官トップの40~60%が博士号所持者という。それにもかかわらず、政策は全て失敗している。間違った政策を決定するのに博士号は不必要だ。学問が暗記対象であり、創造でないことを図らずも示している。

 

(3)「このように学問の韓国的遺産と米国式の慣行(博士の大量生産)が混合した結果が、今日の韓国社会特有の博士ブームへとつながっている。問題は、その社会的コストパフォーマンスの低さだ。博士が多いというが、彼らの国家RD(研究開発)の通知表は、GDP(国内総生産)比で世界最高水準の投資を恥ずかしくさせる。ノーベル賞を前に毎年口を開けるだけなのが韓国の現実だ。博士が増え、韓国社会の教養と品格が高まったわけではない。博士の数に比例するほど韓国が世界的な知識強国や文化大国になっていないというわけだ

 

韓国は、博士が増えても上品な国になったわけでない。下線が指摘する通りである。相変わらずの「反日」は、下品の最たるケースである。国際法に則った判決を出せず、過去の政府間の条約や協定を骨抜きにする判例を出して「恬(てん)として恥じず」である。

 


(4)「こうした事情を招く背景には、自分がやりたい勉強を、自由にやりがいを持って楽しく行う。そういった社会的雰囲気の欠如が大きく作用している。多くの場合、重要なのは学位そのものにすぎず、学問の意味や勉強の価値を自ら省察することは非常にまれだ。学界外部の有力者にとって、博士号とは成功と出世の飾りであるケースが多い。学問の世界に入門する若い世代も、各種の制度圏知識管理システムに依存し、知識創造行為といった本来の動機と目的を忘却してしまう」

 

博士号が、鼻の先にぶら下げる手段になっている社会は、儒教社会ぐらいであろう。それが、出世の手段になっているから、記憶力だけを生かし想像力を働かせない韓国社会をつくっているのであろう。

(5)「こうした点で、博士の意味そのものが韓国とは異なる海外の最近のケースは、韓国に示唆するところが大きい。例えば、2016年にフランスでは91歳の女性が移住労働者関連の研究で博士号を取得した。彼女は約30年にわたってフランス在住の外国人労働者にフランス語を教えつつ、合間に資料を集め、論文を書いた。2018年、日本では88歳の女性が博士論文を書き上げたが、テーマは縄文時代の布に関するもので、生涯人形や玩具などを制作しながら蓄積した現場の知識が背景となっている。知識・文化先進国の究極的な基盤は、博士号の数ではない。それは個人の生活と分離していない学問、職人精神で没頭した研究、そして自らの学識を鼻に掛けない普通の人々の現場での勉強だ」

 

日本には著名なフランス文学者の河盛好蔵が、95歳で京都大学より文学博士号を授与されたケースがある。河盛の場合、過去の作品が評価されたものだが、新たに博士論文を書き上げた88歳の女性がいる。大変に口幅ったいことだが、私は68歳で8年の歳月をかけて博士論文を書き上げた。その経験と忍耐がこうして毎日、ブログを書く原動力になっているように思う。読んで下さる方に、改めて感謝を申し上げなければならない。