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中曽根康弘元首相が、101歳の天寿を全うされた。「人生、棺を覆うて定まる」というが今、元首相への評価がされている。

 

中曽根康弘元首相は、新自由主義の立場であった。すなわち、国家の介入を排して市場経済を重視するものだ。国鉄・専売公社・電電公社の国有事業を民営化した。それぞれ、JR、JT、NTTと社名も経営実態も大きく変って、発展している。

 

こういう壮大な事業を展開するには、理念的に確固たるものがなければ実現不可能である。この新自由主義は、ノーベル経済学賞に輝いたミルトン・フリードマンの業績である。フリ-ドマンは、大変な親日家であってたびたび訪日した。私は、フリードマンと中曽根氏の接点について知らない。中曽根氏は、書籍を通じて新自由主義を理解されていたと思われる。

 

米国のレーガン大統領、英国のサッチャー首相、そして中曽根康弘首相の3方は、新自由主義の立場から、それぞれ政策を展開して世界的に大きな影響力を発揮した。だが、中曽根康弘元首相については、右翼などという心ないレッテルが貼られることがしばしばである。それは、日本列島を「不沈空母」にするという発言が大きく響いたと見られる。日本を日米安全保障条約で防衛するという覚悟を見せたものである。

 

『毎日新聞 電子版』(11月29日付)は、「本質は右翼ではない、部下死なせた戦争が原点=北岡伸一氏」と題する記事を掲載した。北岡氏は、国際協力機構理事長、東大名誉教授である。

 

(1)「中曽根氏は日本の国力がピークのときに首相を務めたといえ、世界でもよく知られたリーダーだ。「右翼」「ナショナリスト」などと言われるが、それは本質を突いていない。中曽根氏の原点は戦争にある。彼はフィリピンやインドネシアに赴き、ロジスティックスの任務を与えられていたが、その任務中に部下を何十人か死なせてしまった経験がある。あまり知られていないが、国会議員になって最初のスピーチで、アジアに対して大変迷惑をかけたと謝罪している。一方で、平和のためには一定の軍事力が必要だという考え方を持っていた

 

中曽根康弘元首相は、中国と韓国との外交関係を密にすると同時に、米国との関係は「一枚岩」になっていた。平和のためには一定の軍事力が必要という立場で、それが「日本列島不沈空母論」となったのであろう。日本が、国際社会で存在感を示すようになったのは中曽根時代からだ。サミットの記念写真で、並み居る各国首脳の真ん中に収まる「努力」したエピソードを記している。日本の国際的な地位は、その程度であったのだ。

 

中曽根康弘元首相は、右翼というレッテルを貼られたが、新自由主義が右翼であるはずがない。レッテル貼りは、相手を深く知ることなく批判するときに良く使われる。韓国の進歩派とされる与党「共に民主党」は、新自由主義を右翼と規定している。その無学ぶりに驚くほかない。だから、経済政策がことごとく失敗し、国民を奈落の底へ蹴落として反省もなく平然としている。

 

(3)「米国との関係を重要視し、関係強化のためには米国の言うことを聞くのではなく、国力をつけて対等になるようにしなければならないと考えていた。米国にもの申すために、アジアとの関係をよくしなければならないとし、中国の鄧小平と友好関係を築き、韓国訪問の際に演説の冒頭を韓国語で話すなどして関係改善に努めたのも、この考え方からだろう。内政では国鉄民営化などに取り組み、これは現在の政治に続く大きな功績といえる。「戦後政治の総決算」は、中曽根氏以前にも使っていた政治家はいたが、中曽根氏の代名詞になったのもうなずける」

 

日本の歴史で、米国と外交面で密接な時代は幸運であった。米国と敵対して戦争すれば、途端の苦しみを味わった。ここから引き出されるべき教訓は、「親米」であることだ。戦後の革新政党が、政権を取れなかった一半の理由は、「反米」にあったと見られる。日本人は、伝統的に米国に親しみを持ってきた。日露戦争で勝てた最大の要因は、米国がロシアを説得して講和条約を早めに結ばせたことだ。戦力的に、日本海海戦で勝利したのが限界であった。米国は、日本の実力の限界を知っていたのである。

 

(4)「政界引退後もシンクタンク(中曽根平和研究所)を設立して積極的に発信していた。日本がとるべき道は何か、ビジョンがある政治家だった。今の日本の政治にとってもヒントになる存在だったのではないか」

 

「人生、棺を覆うて定まる」という。人生最期の最期、死んで棺桶に入りその蓋が覆ったとき、その人の人生の評価が自他共に確定するとされている。他人の評価でなく、自分自身がいかに生きたか。中曽根康弘元首相は、晩年もシンクタンクをつくり、積極的に発言してきた。その意味では、人生を全うされた希有の生き方をされたと思う。ご冥福をお祈りする。