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9月18日に日本人男児の刺殺事件があった。場所は、中国の改革・開放をけん引してきた深圳経済特区(広東省)の中心部である。この日は、満州事変(1931年)の発端となった柳条湖事件が起きた「国辱の日」とされ、過去に全国各地で大規模な反日デモが行われたことがある。

 

『時事通信オンライン』(9月26日付)は、「反日デモと共通の背景ー深圳の日本人男児刺殺事件」と題する記事を掲載した。

 

事件は、被害者の男児(10)が通っていた日本人学校の近くで発生した。深圳は北京、上海、広州(広東省)と並ぶ中国本土4大都市の一つで、国際金融センターの香港に隣接。最も成功した経済特区として知られる。

 

(1)「中国での日本人襲撃事件は今年3件目。6月24日に蘇州市(江蘇省)で起きた2件目では、日本人母子が負傷し、犯人を阻止しようとした中国人女性が死亡しており、死者は今回を含め計2人となった。いずれも日本人学校の関係者だった。中国外務省の発表によると、深圳の事件で亡くなった男児の父母は日本人と中国人だという」

 

中国当局は、6月に蘇州で起こった日本人襲撃事件の段階で、これを重大視すべきであった。9月の今回の事件発生を考えると、中国当局の落ち度は明らかである。

 

(2)「犯行の動機が「反日」だとすれば、中国のSNSで広まった日本人学校に関するデマに刺激された可能性が高い。「日本人学校はスパイ養成基地」「中国人の立ち入りを完全に拒否して、ミニ租界と化している」「世界の日本人学校の4割が中国にあり、不自然だ」といったもので、全部でたらめだ。これらの投稿は日本に対する憎悪をあおるだけでなく、日本人学校の成立を認可した中国の教育行政に対する批判でもある。社会主義体制の中国では政権批判が禁じられており、インターネット上の言論統制も厳しい。違反した投稿は削除され、場合によってはアカウントが閉鎖されて、悪質と見なされれば警察に連行されることもある。ところが、日本人学校関連のデマは放置され、拡大した」

 

中国当局は、インターネット上での悪質な反日書き込みを放置してきた。これは、間接的に書き込みを奨励するようなものだった。

 

(3)「極めて不可思議な現象であり、政府のネット管理部門からネット運営各社に対し、対日批判の投稿を厳しく規制しないよう内部の指示もしくは示唆がなければ、あり得ないことだ。「日本関連投稿の規制ではネットユーザーの愛国主義感情に配慮せよ」といった当局の意向が伝えられた可能性がある。この種のデマ投稿は6月の事件以後、減ったものの、深圳の事件発生直後にチェックしたところ、まだ多くの投稿が確認できた」

 

当局が、反日投書を放置していたのは、意図的に行われていたのであろう。

 

(4)「筆者が、12年に広東省各地で取材した反日デモも、似たような事情があった。政府が公然とデモ実施を指示することはなかったが、路上で数人がデモを始める構えを見せても、近くに多数配置されていた制服・私服警官は傍観して事実上容認した。これを確認したデモ隊が行進を始めると、人数が雪だるま式に増加。その一部が暴徒化して、日本料理店などを襲撃した。デモに関するネット上の連絡に対する規制が緩まって、現場でも取り締まりがないのであるから、デモや騒ぎを起こそうとしていた人々がこれを当局の黙認と受け取るのは当然だ」

 

2012年の反日デモでも、当局は取り締まらずに放置していた。デモ扇動者は、当局が取り締まらない様子をみて承認されたと思い込んで騒ぎを大きくしたのだ。

 

(5)「中国政府はデモを直接命令したわけではないので、責任を負わず、警察は暴徒を大量検挙したものの、一般刑事事件として処理した。中国側は詳しい説明を避けて、事件を矮小(わいしょう)化した。今年の日本人襲撃事件についても、中国外務省報道官は「偶発的に起きた」「個別の事件だ」「類似の事件はどの国でもあり得る」と冷淡なコメントをしており、事態を重大視していない印象を与えた。

 

当局は、反日デモの際にも「偶発的に起きた」「個別の事件だ」「類似の事件はどの国でもあり得る」という反応であった。

 

(6)「ニューヨークで上川陽子外相と会談した王毅外相も同様の見解を示した。決まり文句なのかもしれないが、実際には、刃物を持って特定の外国の子供を襲う凶行が偶然続けて起きるはずはなく、中国以外の国では起きていない。上川外相は「根拠のない悪質で反日的なSNS投稿」の取り締まり徹底を要求。これに対し、王外相は「日本側は冷静かつ理性的に対応して、政治問題化と(事態の)拡大を避けなくてはならない」とくぎを刺した。「大騒ぎするな」という意味のようだ

 

 

下線部のように、上川外相と王外相のやりとりで中国側の冷たい反応が目立っている。人命が失われたという厳粛な事実に対して、中国側の反応が極めて機械的であることが気になるのだ。