ドイツのアンゲラ・メルケル前首相(1954年生まれ、首相在任2005~2021年)が、昨年11月に回想録を出版した。30カ国以上に翻訳され出版されることが決まっているという。このメルケル氏は、ドイツの政治と経済にいかなる足跡を残したか。ドイツが直面する諸問題は、メルケル氏の「置き土産」の結果である。
ドイツの思想家マックス・ヴェーバーは、政治家に不可欠なのは、良いと思うことを実行する「心情倫理」よりも、結果を考えて実行する「責任倫理」であると指摘している。メルケル氏が決めた「難民受入」や「債務ブレーキ」問題は今、ドイツ政治とドイツ経済を混乱の坩堝へ陥れている。政治家にとって、責任倫理の重大性がいかに大きいかを見せつけているのだ。メルケル氏は、生きた政治の「教科書」になった。
『東洋経済オンライン』(2月1日付)は、「ドイツ『低迷の元凶』の悔恨なきメルケル回想録」と題する記事を掲載した。筆者は、ジャーナリストの三好範英氏である。
2011年3月11日の東日本大震災とそれに伴う東京電力福島第一原発事故は、その後のドイツのエネルギー政策に大きな影響を与えた。それはメルケルが、日本の原発事故を理由に脱原発の道筋を確定したことが大きい。福島第一原発が水素爆発を起こし、炉心溶融が明らかになって、ドイツ政権内にも衝撃が走ったが、ドイツに対する影響については、政権内でも対立があった。
(1)「確かに、脱原発という意味でメルケルの決断は、意味があった。しかし、再生エネルギーのコストは高く、電気料金はほぼ一貫して上昇した。さらに、ロシアからの天然ガスへの依存も高まり、ウクライナ戦争(2022年)によって、他の欧州諸国に比しても甚だしいエネルギー価格の高騰に直面した。それでもドイツはほぼ予定通りに段階的に原発廃止を進め、2023年4月、全原発の稼働停止に至った。今やドイツの電気料金はヨーロッパでも最も高い水準となっている。多量の電力が必要な精錬業や化学産業、さらに自動車などの主要メーカーが生産拠点を海外に移す動きが広がり、ドイツ経済の先行きに対する不安感が広がっている」
脱原発によって、再生エネルギーへ転換したが、コスト面や新たな供給制約を十分に検討しなかった。これが現在、ドイツ経済を苦しめている。
(2)「回想録で最も力説されているのは、地球温暖化の危険性である。メルケルは「ドイツに対して再び原子力エネルギーを使うことを推奨しない。原子力エネルギーなしに気候変動対策の目標を達成することは技術的に可能だし、それによって、地球の他の国に対し勇気を与えることができるだろう」と、依然として脱原発で世界の模範となるべき、との理想を語る一方、経済に対して与えている負の影響については言及しない。今やドイツ経済界や多くのドイツ国民は、こうした説明に納得できないのではないか」
メルケル氏は、地球温暖化の危険性という理念を重視したが、その代替策にぬかりがあった。
(3)「2015~2016年の難民危機の際、メルケルが100万人を超える難民認定申請者を受け入れたことは、立派な人道的措置として称賛される一方、ドイツにその後の混乱をもたらした失政との批判も強い。「アラブの春」(2010~2012年)などによって、欧州連合(EU)圏に流入する難民の数は増加してきていたが、2015年6月、ハンガリーのブダペストに、中東、アフリカ、アフガニスタンなどから、主にドイツを目指す多くの難民が滞留するに至った。有効な切符を持っているにもかかわらず、ハンガリー当局によって列車から降ろされて、収容施設に連れていかれる難民たちの映像がテレビで何度も放映された」
難民も人道的措置として積極的に受け入れた。これ自体は正しいことだが、後から混乱が起こることを想定していなかった。
(4)「メルケルは確かに16年の治世で、世界金融危機、それに続くユーロ危機の対処に危機対処能力を発揮し、経済もおおむね好調で、ドイツの「一人勝ち」といわれた。誠実な、飾らない人柄がドイツ人には人気があり、それも長期政権を可能にした一因だった。しかし、ウクライナ戦争後は、難民受け入れや脱原発政策、経済好調の理由だった対ロシアのエネルギー依存、中国市場への依存、軍事の軽視などが、ことごとく裏目に出ている」
(4)「メルケルは確かに16年の治世で、世界金融危機、それに続くユーロ危機の対処に危機対処能力を発揮し、経済もおおむね好調で、ドイツの「一人勝ち」といわれた。誠実な、飾らない人柄がドイツ人には人気があり、それも長期政権を可能にした一因だった。しかし、ウクライナ戦争後は、難民受け入れや脱原発政策、経済好調の理由だった対ロシアのエネルギー依存、中国市場への依存、軍事の軽視などが、ことごとく裏目に出ている」
メルケルは、2009年の基本法改正によって、連邦政府の構造的財政赤字を、GDPの0.35%以下に制限させた。「債務のブレーキ問題」である。これが、現在のドイツ経済回復上で大きな制約条件になった。民間が、過剰貯蓄を保有しながら、国債で十分に吸収できないという問題を抱えている。
(5)「その原因の一端は、メルケルが政治に倫理を過度に持ち込んだことにあるのではないか。ドイツの国民性には、時として理念と現実バランスを失い、理念先行、現実軽視で物事を進めてしまうところがある。メルケルも、その弊を免れなかったのではないか。作家トーマス・マンは、ドイツ人には「世間知らずの理論癖」があるとして、ドイツは「文化は高いが政治は惨め」と評した。メルケルに高い支持を与えるドイツ人は、いまだにかつての政治的未熟さを払拭できていないのでは、とすら思える」
連邦政府の財政赤字を、GDPの0.35%以下に制限させた点は、メルケルが過度に政治へ倫理を持ち込んだ一例であろう。この「財政的な限界」が、ドイツ経済を苦しめ、右翼の政治勢力を増大させるきっかけになった。皮肉なものだ。


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